連載エッセイ「日々の徒然」

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◎第23回(2002/6/6)

ピストンクラブという実験

和気 愛仁
 トランペットアンサンブルは、一般に難しいものとされているようである。常設のアマチュア団体で定期的に活動しているところはきわめて少ないし、市販されている楽譜もまた非常に少ない。なぜ難しいと言われるのだろうか。その理由には、例えば、音域の狭さや鋭すぎる音色(一般にはそう思われている)、楽器の機構的問題から来る技術的な制約、そして体力的な問題などがあげられるだろう。だが、トランペットアンサンブルの普及を妨げている本当の原因は、実はラッパ吹き自身の精神・性格にあるかもしれない。

 トランペットは花形楽器である、という認識を持つ人は多いであろう。オーケストラの生演奏を聴いて、かっこいいなあ、なんてあこがれてしまう純朴な少年少女も多いかもしれない。しかし、実際のオーケストラのトランペットパートは、そんなにいつも面白いもんじゃないのである。日本のオーケストラでよく演奏される独墺系の古典派・ロマン派作品においては、トランペットのパート譜にあるのはド・ミ・ソ(たまにレ)のチャンチャカチャン音符ばかりである。しかも、音符と休符の比率は1:9以下(ちょっと誇張しすぎか)ではなかろうか。なんと言っても64小節の大休符や楽章丸ごと tacet(休み)など当たり前なのだ。こういう環境の中でばかり吹き続けていると、ごくまれにメロディなどが回ってこようものならここぞとばかりに馬鹿吹きしてひんしゅくを買い、休符があれば即座に寝る、ということになってしまう。第九の3楽章の練習で、指揮者が弦楽器や木管楽器をつかまえて何やらありがたい言葉を発している後ろで、ラッパ吹きが2人そろって船をこぐ姿がまぶたに浮かぶ。

 オーケストラで隣に座るトロンボーンも、やはり音符が少ない。いや、音符の少なさではトロンボーンのほうがさらに上だ。しかし、彼らがトランペットと決定的に違うのは、3人が一致団結して美しい和声を作る役割を与えられているという点である(これは、彼らの楽器が歴史的に古くから半音階を吹くことができたという理由による。一方我らがトランペットはドソドミソ…の自然倍音だけ)。音楽全体を紡いでいく上で、和声は非常に重要な横糸となる。当然、音楽の流れの中では、ごく小さい音量が要求される局面も出てくる(悲愴のコラールの pppppp など有名だ)。というように、トランペットとトロンボーンは、ともに ff を要求されるごく一部の局面を除けば、要求される役割がまるで違うのだ。ラッパ吹きを取り巻くこういった音楽的環境が、本来清く正しく美しい音楽家であるラッパ吹きの性格にいかなる影響を与えるかは、容易に想像がつくであろう。

 このままではいかん。オレももっといろんな音楽がやりたい。そう思って木管楽器や弦楽器の譜面を吹いてみる。当然、片寄った音楽的環境の中でノリが良いだけの一発お祭り野郎と化したラッパ吹きには、めちゃくちゃ難しい。この難しさはなんだ。楽器の機能的な制約を差し引いても、ラッパ吹きには何か欠落しているものがあるのではないかと疑いたくなってくる。楽器の制約を理解した上で、それをうまくカバーしながら、より高度な音楽表現ができないものだろうか。翻って、今度はブラスアンサンブルの楽譜を吹いてみる。確かに楽しい。だが、ブラスアンサンブルは、もしかしたら、エンターテインメント性に目を向けすぎるあまり、より幅広い可能性を求めることをおろそかにしてはいまいか。例えば、そもそもなぜ金管五重奏はトランペット×2、ホルン、トロンボーン、テューバという編成なのか、もっと別の形態はあり得ないのかと考えてみるような、当たり前の「常識」を疑ってみる態度がもっと必要なのではないか。

 こういった問題提起に対するひとつの解が、ピストンクラブである。

 ピストンクラブはひとつの実験媒体である。ピストンクラブがコンサートで用いる楽譜は、作曲・編曲を含めてすべてメンバーが書いたものである。トランペットアンサンブルと名乗りつつ謎の楽器も多用するし、時には金管楽器でない楽器やコンピュータでさえも使用する。ほとんどすべての楽譜は演奏するメンバーを指定してあり、奏者の個性すらも音楽をつくる材料として利用する。タイトなクラシック音楽をきまじめに演奏したかと思えば、ド演歌を客席で吹いたりもする。さらに、楽器を演奏するだけでは飽きたらず、ホームページで駄文を公開したりする。そういった表現活動すべてが、ピストンクラブという媒体を介して世の中に放出されていく。この実験にタブーはない。

 ピストンクラブには、一般的なブラスアンサンブルにはない可能性がある。音色のバラエティ、音の指向性やテクニカルな機動面における統一感、音質の適度な量感(ブラスアンサンブルは重すぎる!)。だが、何よりも重要なのは、各メンバーの自発的アイディア生成能力と強烈な(時としてまったくそりの合わない)個性、そして表現することへの異様なまでの執着である。加えて、幸いなことにピストンクラブには、自らの性格的な傾向性さえも、分析的かつ客観的に道具として扱うことのできる知性がある。そのようなメンバーが集っているからこそ、さまざまな可能性を試しては壊し、という実験を繰り返すことが可能になっているのだと言えるであろう。

 第5回の演奏会が終わったとき、メンバーは口々に「よく5年続いたね」と言った。10年たった今、そういう言葉を口にするものはいない。ピストンクラブには、まだまだたくさんの可能性が眠っている。そのことに、ようやく気づき始めている。

第10回定期演奏会パンフレットより一部修正の上転載。



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