連載エッセイ「日々の徒然」

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◎第32回(2002/10/23)

3杯のラーメン

野口 洋隆
私は、ラーメン本が好きである。

本屋やコンビニの棚に、『決定版! 東京のうまいラーメン200』とか、『厳選ラーメン100店』とかあると、つい買ってしまう。かといって、私は3食ラーメンでも大丈夫で、日夜おいしいラーメン店の研究に余念がない、という趣味があるわけではない。ぜんぜんその反対で、そのような本を片手に、有名店を食べ歩くというようなことも、まったくしない。本当に、見て読んで楽しむだけなのである。

私の妻などは、「何で食べもしないのにそんな本買うのさ?」とか、「料理もしないのにお料理の本は好きなのね」とか呆れている。まさにその通りなので、私としても返す言葉はない。

だいたい私は、混んでる店とか、あまり得意でない。知らない初めての店にはいるのも、あまり得意でない。しかもその知らない店が、行列ができていて1時間待ちで、「ぶたダブル」とか常連しか知らない符丁で頼まなくてはダメで、うるさい店主がじろっと睨むというような店だと書いてあったら、そんな店にはいるのは相当の勇気が要るのである。そういうのが嫌で、代わりに本で疑似体験を楽しんでいるわけであるが、妻に言われるまでもなく、我ながら奇癖であることは自覚している。

私は、ラーメンは好きである。食べ物で嫌いなものは余りないので、ラーメン並みに好きな食べ物というのも数が多いが、ごく普通にラーメンも食べる、という平均的日本人であると思う。本稿では、今まで私が食べたラーメンの中から、心に残る3杯を選んで、ご紹介をしたい。



【1】牧製麺所 住所:長野県須坂市立町

地元では知らない者のいない名店である。

本業はラーメン店でなく、その名の通り製麺所である。ラーメンの麺だけでなく、うどん等も作っており、地元の飲食店に広く供給している。お昼の時間だけ、小さな5坪ほどのスペースを使って、自家製の麺を調理して出している。

しょうゆ、みそ、塩があり、どれも旨い。どんぶりもデカい。ラーメン一杯で十分ボリューミーな昼飯となる。私が初めて「牧製麺」のラーメンを食べたのは、小学校低学年のときであるが、とても食べ切ることは出来なかった。初めて見たとき「でけー」と思ったものだ。もちろんどんぶりが。

製麺所であり、中華料理店ではないため、当然のことながら、ギョーザやチャーハンがあるわけでないし、ライスが注文できるわけではない。あるのは、麺のみである。そして、この麺が素晴らしい。

直ぐとなりの部屋にある製麺機で打った麺は、新鮮な感じがして、とても正統的な麺の旨みとのど越しが味わえる。また、安かった。ほとんど原価ではなかったか。まあ、本業は製麺業の方なので、食堂で稼ぐ必要はなかったのであろう。食堂での評判を麺作りにフィードバックしていたのかも知れない。

うちは、私が小学校1年生のときに引っ越しをしたが、その引っ越した先の真向かいにあったのが、この「牧製麺」である。ちなみに、その家の真裏にあったのが、後に私が通うことになった高校であった。また近くには市役所があり、牧製麺に食べに来る客というのは、うちの高校の生徒や、市役所の職員が多かった。私は、幼い頃からのご近所さんであったから、「牧製麺」のことは今でも「牧さんち」と呼ぶ。近所であり、私も幼かったこともあり、この店の一家にはかわいがってもらったものである。

「牧製麺」は、ご主人とその奥さん、あと兄妹のお子さんが2人いらっしゃって、私が小学生のころ、お兄さんはちょうど後を継ぐためお店にはいったばかりで、妹さんは妙齢の結婚前のころであった。

お兄さんが配達に行くワゴン車にくっついて乗っけてってもらったこともある。当時の私の部屋は2階の一室で、ちょうど窓の前に「牧製麺」があるのだが、ある冬の寒いとき、朝目覚めて膀胱が満タンなっていたのだが、ついつい階下のトイレまで行くのが面倒くさく、窓からちょろちょろと屋根の上に失礼してしまったことがある。これを「牧製麺」のお姉さんに見つかって、うちの親に告発されたのだ。ああ、ごめんなさい。もうしません。私は謝ったものだ。

告げ口をされたといって、別にお姉さんを恨むことは何もなかったが、ある日小学校からの帰り道、お姉さんが白い着物を着て、おばさんが黒い着物を着て、近所の家をあいさつ回りしているのに遭遇したことがある。お姉さんの結婚式で、花嫁衣装でご近所にあいさつ回りをしているのであった。当時は、このような習慣がまだ残っていたのであろう。いつもとは違ったしずしずした動きでお辞儀をされたのに戸惑ってしまったが、これは私を大人扱いしたというわけではなく、花嫁衣装では素速くは動けなかったからであろう。

「牧製麺」の仕事着は、おじさんとお兄さんは白い帽子に白い作業服のような服、おばさんは白い割烹着のようなものを着ていたと思う。なぜかお姉さんだけは、ピンク色とか、普通のカッコをしていた記憶がある。そして、その服装は、料理屋というよりは、食品工場のイメージであった。非常に清潔な製麺所の白のイメージが、私は「牧製麺」というと思い浮かぶ。その白は、麺の白さと相俟って、私の中のラーメン像に結ばれるのである。



【2】さつまラーメン 住所:長野県須坂市立町

中学生のとき、うちは再び引っ越した。前のうちなら徒歩0分の高校に、自転車で15分かけて通うことになった。

高校生のとき、その近くに新しくオープンしたのが「さつまラーメン」である。おやじが一人でやっており、テーブル2つ、カウンター席7席くらいの店であった。

私はここで、生まれて初めてトンコツラーメンを食した。最初は、白濁したスープをみて、恐る恐る口をつけたものである。ラーメンに紅しょうがを乗せるという行為も、それまでの食習慣にないものであった。しかしすぐに、「これはうまい」と感じるようになり、以後、友達らとよく行くようになったのである。

前項の「牧製麺」が白のイメージなら、この「さつまラーメン」は朱のイメージである。のれんや看板は赤く、内装にはオレンジ色をふんだんに使っていた。そして、紅しょうが。

湯気が立ち昇るアツアツのラーメンに、紅しょうがをどっさり乗せる。エキスがたっぷり溶け込んでいそうな乳白色のスープをすすりながら、夢中で麺を食べる。麺も具も食べ切ってしまい、どんぶりの中にはスープが数センチ残っている。そのとき、スープには紅しょうがの紅が溶け込んでおり、きれいなピンク色に染まっているのであった。そして、勘定を済ませ店から出るときにくぐる赤いのれん。

「さつまラーメン」のイメージの朱、それは店にはいり、注文をし、ラーメンを食って、帰る、という行為の各ステージにおいて演出されているものなのであった。

おやじは寡黙で、黙々とラーメンを作っていた。出前もカブに乗ってひとりでこなしていた。今思えば、そのトンコツはギトギトの強烈なものでなく、それまでトンコツラーメンを見たこともない長野県人の味覚に合わせてアレンジしてあったのではあるまいか?食べやすい、しかし、後味にコクが残る、といった感じのラーメンであった。

私のお気に入りは「さつま野菜」である。ほぼいつもこれを食べていたような気がする。私は今でもほとんど「チャーシューメン」というものを頼んだことがない。チャーシューが嫌いなわけではないが、ラーメン1杯に対しては、チャーシューは1切れか2切れで十分だと思うのだ。トッピングとしては、やはり野菜を好む。「野菜ラーメン」「もやしラーメン」といったものが好きである。

実は、前項で述べた「牧製麺」には、高校生の頃はあまり行かなかった。小さい頃から知られているので、行って「まあ、ひろちゃん、よく来たね」と言われるのが気恥ずかしかったのである。今思えばもったいないことをした。そんなわけで、回数的には「さつまラーメン」に行った回数の方がずっと多いのではなかろうか。おやじはいつでも寡黙だった。余計なことを言わない、というのも高校生にはありがたかった。

この前、久々に「さつまラーメン」の前を通りかかった。しかし、そこに見慣れた朱いのれんはかかっていなかった。どこかへ移転したのであろうか。それとももう店をたたんでしまったのであろうか。ともかく、私にとってのトンコツラーメンは、今も「さつま」なのである。



【3】はがや 住所:青森県百石町上明堂

ローカルなラーメン店ばかりで申し訳ない。しかも、この「はがや」はラーメン店ですらない。「はがや」はおでん屋さんである。

私の就職した会社の工場が、青森県八戸市にある。八戸市は青森県の太平洋側にある、古くからの漁港および最近の工業都市である。百石町というのは、この八戸市の北側に隣接する小さな町である。知る人ぞ知る「桃川酒造」がある町でもある。

「はがや」は、桃川酒造から近い、奥入瀬川の堤防を裏手に控えた通りにあるおでん屋さんである。婆さんが一人でやっている店で、カウンター席しかない。みちのくのひなびた町の、そのまたひなびたちっちゃな店。どんよりと垂れ込める灰色の空。あっと言う間に暗くなる北国の夕、舞う雪の破片。

そんな、東京の生活からすれば、さみしい、さみしーい店である。しかし、そこにはみちのく特有の温かい情緒があるのであった。わけでもなく、会社の同期の同僚と初めて「はがや」に行ったときも、「若い人はもっと派手なお店がいいんじゃあないの」と、おでんをどんどん出すわけでもなく、淡々と時は過ぎるのであった。建て付けの悪い入口の引き戸からはすきま風が吹き込んでくる。店にはテレビが点けっぱなしになっているが、誰が見るでもない。ほかに客も来ない。

おでんは旨かった。と、思う。特に地のネタであるツブ貝なんかは、あまりほかでは食べられないものなのではなかろうか。

「はがや」がある通りには、飲食店が何件か並んでおり、「まきの」という名店があった。居酒屋というか料理屋である。夫婦2人だけでやっている店で、刺身などのつまみのほか、鍋物もあり、定食メニューも旨いのが揃っているのであった。「まきの」のおやじは競輪好きで、確か店の定休日は水曜日だとかに決まっていたと思うのだが、それ以外にもときどき気まぐれで店を休んでいた。奥さんは、よくできた人で、店の給仕は全部この奥さんがやっていた。

「まきの」のメニューでは、唐揚定食、納豆豆腐、蟹鍋などがお奨めであった。いずれも、かなり安いにもかかわらず、その質・量とも東京ではあまり味わえないもので、つまみを取って、ビールやお酒を飲んで、鍋を食べたとしても、1人あたり2,000円もあれば十分であり、たっぷり酔えて、お腹はいっぱいになるのであった。バクライというものを食べたのもこの店が初めてである。バクライとは、ホヤの塩辛である。「まきの」に行くたびにこれを頼んでいた記憶がある。この「まきの」は、風の噂によれば、もう今は店をたたんでしまったそうである。惜しい店を失ったものだ。

さて、「まきの」の隣には、「浜」というスナックがあった。この店ももうなくなった、という噂も聞いた。社会人になって、いわゆる「スナック」というものにはいった初めての店であった。ママがいて、ジュンちゃんとイヅミちゃんという「女の子」がいた。会社の寮から近かった(と云っても、徒歩20分はかかったろう)ため、何かというと繰り出すことが多い店であった。

件の「はがや」のラーメンを初めて食べたのは、この「浜」においてである。

さんざん酒を飲んで、カラオケをして、最後に「ラーメンでも食べよう」という話になり、「浜」では「はがや」からラーメンの出前を取ったのであった。「はがや」がラーメンもやっているとは、このときまで知らなかった。ハッキリ言って、何の期待もなく、ただ多少の酔い醒ましと、空腹への足しになれば、と思っていた。

「はがや」のラーメンは、純東京風のしょうゆラーメンであった。

しつこいところのまったくない、さっぱりしていて、酔った身体でも何の抵抗もなく受けつけられる、とってもやさしいラーメンであった。「昔のラーメンというのは、こんなラーメンのことをいうのであろうなあ」そう思わせるラーメンであった。ノスタルジーという言葉がラーメンに向けられるのであれば、「はがや」のラーメンこそそれに相応しい。

私は、汁も一滴も残すことなく、このラーメンをすすってしまった。

おそらく、出汁は海産物系なのだと思われる。おでんが本業なのだから、その出汁を使っているのであろう。そして、それがラーメンにあんなに合うとは、そのときまで知らずにいた。

今までのラーメンを色のイメージで表してきたので、「はがや」でもそれをやってみるとすると、これはもう灰色としか云いようがない。北国の、それも東北地方特有の、北海道の明るさとはぜんぜん違うどんよりとした灰色。まるで救いようがないようなイメージであるが、住んでみれば決してそんなことはないものである。逆に云えば、その良さは住んでみなければ分からないのかも知れない。

しかしそんな、みちのくの地にあって、「はがや」の婆さんが作るラーメンは、呆れるほど洗練された味として私の記憶に刻まれている。世間で云われるところの東京ラーメンというものがあるとすれば、私にとってのそれは「はがや」のラーメンなのである。


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