連載エッセイ「日々の徒然」

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◎第33回(2002/10/23)

3杯のうどん

野口 洋隆
うどん本というのは、そんなにない。少なくとも私は持っていない。ラーメン本は多く、またそば本も幾種類かある。しかし、うどんがあまりないのは何故だろう?

一般に、関東はそば文化圏で、関西はうどん文化圏とされる。大阪とか行けば、うどん本がいろいろ出ているのかも知れない。それともそんなスノッブなことをするのは、関東者だけか。

私は、うどんをそんなには食べない。そば屋とかでは、そば/うどんを供しているところが多くあるが、私はほとんどの場合、そばを注文してしまう。うどんが嫌いという訳ではないが、そばの方がなんとなくビタミンとか栄養が豊富そうな気がするから、という安直な理由による。

うどんについては、やっぱり関西の方がいろいろあるのだろう。私の記憶の中でも、大学時代のオーケストラのツアーで行った関西の、例えば大阪のうどんすき、高松の真夜中の讃岐うどん、徳島の鍋焼きうどん等が強く印象に残っている。このうち、讃岐うどんに関しては、夜中の12時くらいにツアーの指揮者であった三石精一氏に何人か引き連れられて行って食べたもので、そのあと宿に戻って『AWA-DANCE』の製作を始めたという思い出の一品である。また、鍋焼きうどんに関しては、まさにその本番の前に食べた一品である。本番前に鍋焼きうどんを食っても吹けるところが、トロンボーンの良いところである(※本HPのメンバー紹介の桜井氏および私の項を参照願いたい)。しかし、これらのうどんについては、その店の名前も覚えていないため、本稿においては叙述をしないものとする。また、名古屋を中心に、きしめんという食べ物があり、実は私は秘かに愛好しているのであるが、これも、うどんとは別のジャンルであろうということで、ここでは叙述を避ける。



【1】牧製麺所 住所:長野県須坂市立町

またもや「牧製麺」である。

実は、「牧製麺」の本領はうどんで発揮されるのであった。「牧製麺」では朝早くから湯気がもうもうと吐き出される。麺を茹でる工程で出される湯気である。大量の麺を製麺しているため、その湯気の量は半端ではない。小麦粉を茹でる製麺工場の匂いが立ちこめる。決して不快な匂いではない。自分が住む町の中に、このように生産活動を生業とする家があるのは、こども心にも悪くない感じがした。

そう、「牧製麺」の匂いというのは、この麺を茹でる匂いなのである。これが普通のラーメン屋とかうどん屋ならば、そこから漏れ出る匂いというのは出汁を取る良い匂いなのだと思われる。その点「牧製麺」は、あくまで製麺所なのであった。

一般に、麺類とかについて、家庭で店と同じ味を出すのは難しいと云われる。その理由のひとつとして、麺を茹でる火力が家庭では業務用と同じだけ出せないことにあるとされる。「牧製麺」は製麺工場であるため、この火力については、普通の店どころではない、強力なものがあったと思われる。あの湯気がそれを物語っている。

さて、「牧製麺」の本領であるうどんであるが、何と云っても「釜揚げうどん」である。これはすごい。

ただ茹でただけのうどんをつけ汁に取って食べるだけなのだが、ラーメンと同じで、麺自体の旨さで喰わせるのである。その口当たり、のど越し、もうたまらない。熱々の釜揚げうどんを、暑い夏の最中でも喰う。いやあ、旨いものである。

普通の家の玄関とも思える引き戸を開けて、牧製麺の店内にはいる。そこの土間のようなところが食堂になっているわけだが、はいると右手の戸を開けて、声をかけ、食券を買う。そこは製麺機が置いてある工場そのものである。「釜揚げ」の食券は白いプラスチックの板である。待つことしばし。つけ汁とともに湯気がもうもうとするどんぶりが運ばれてくる。熱湯のなかに泳ぐ白いうどん。

おそらく「釜揚げうどん」が「牧製麺」の看板メニューであったと思われる。

「牧製麺」は、つくづく麺自体が旨いのである。



【2】まるじん 住所:長野県須坂市屋部町

「牧製麺」はうちの高校のすぐ近くにあったのだが、高校の近くにはうどん屋がもう一軒あり、それが「まるじん」である。

「牧製麺」のうどんが、麺類の本道をいくシコシコ感のうどんであるのに対し、「まるじん」のそれは、ボロボロと煮崩れたような、煮込みすぎてのびてしまったような、うどんなのであった。こう書くと「そんなもんが旨いのか?」と云われそうだが、不思議なことに一度食べるとやみつきになるのである。

この店に初めて行ったのは高校生のときであり、先輩に連れられていったのだが、うちの高校の吹奏楽のローブラス・パートでは伝統の店であった。(ちなみに、伝統の店はいくつかあり、ラーメンの何とか軒とか、スパゲッティー(パスタではない。また"ティー"と伸ばすところがポイント。)のフジ会館とか、何件かあって、OBとかが来たときにおごってもらうのであった)高校生の舌でも、うどんとしては「牧製麺」の方が正統派であることは判別できたのであるが、「牧製麺」の営業は何と云っても昼間だけなのである。夜8時とか9時頃まで特別練習をするためメシを食ってから、といった必要がある場合には「牧製麺」は開いていない。「まるじん」に行くのは、このようなときであった。「まるじん」に行った後は、必ずまた楽器を吹くのであった。また例えば、今日は吹奏楽コンクールというその日、学校で楽器の積み込みをしたあと、コンクール会場に向かう前に「まるじん」のうどんを食うのであった。

さて、この煮込んで麺もボロボロになったような「まるじん」のうどんであるが、メニューとしては「うどん」という名であったように思う。決して「煮込みうどん」とかではなかったと思う。具は「牧製麺」より豊富で、いろいろはいっているのだが、何と云ってもこれを食って印象に残るのはボロボロの麺である。

今思うに、このうどんのすごさは、このような麺なのに「不味い」と思わせないところにあるのではなかろうか。私の記憶の中で、「まるじん」のうどんは、「おいしい」となっている。高校生の頃だったので、何を食っても旨かったのだとも思われるが、それにしても不思議である。

もう、10年以上前になるだろうか。「まるじん」は別の場所へ移転していた。店も新しく広くなっていた。ひさびさに行った新「まるじん」で食べたうどんの味は、まったく変わっていなかった。「おお、まるじんのうどんだ〜!」一緒にいった友人らとともに喜んだものである。

しかし、決して一般的とは思えないテイストであったのであり、その後どうなっているかは知らない。でも、まだあのうどんをやってくれてると、嬉しく思うであろう。



【3】松戸駅1F立ち食いそば屋 住所:千葉県松戸市松戸

この立ち食いそば屋は、もうない。私が松戸に住んでいた十数年前、松戸駅には立ち食いそば屋が何軒かあった。JRと新京成のホームにそれぞれあるほか、2Fの改札を出た前に1軒、そしてもう1軒、西口の階段を下りた1Fのロータリーの前にあった。本稿で記述するのは、この1Fの店である。

これらの立ち食いそば屋の経営母体は、おそらくそれぞれ違っていると思われる。味が違うからだ。この1Fの店は、品揃えも豊富で、普通の立ち食いそば屋とは一線を画していた。オーナーだか、権利者だかと思われるおじさんが、白い調理服を着て厨房で麺を茹でており、おばちゃん何人かがそれをサポートする体制であった。

話は少しはずれるが、松戸駅の立ち食いそばは、総じてレベルが高い。私の好みで順番をつけさせてもらえば、1F→JRホーム→2Fの順番で旨かった(新京成は利用したことないため、分からない)。そして、最後位の2Fの店が、一般的アベレージである。この1Fの店は、私が知っている立ち食いそば屋の中では、ベストの部類に位置する。

風邪をひいたときなど、この1Fの店の「肉うどん」を食うと、何故か治ったものである。風邪をひいて弱った身体には消化が良いものが望ましいということで、このチョイスになるのだが、ここの「肉うどん」は、肉も良質のものが自然な味付けでたっぷり載せられており、薬味のネギもふんだんに盛られているのであった。普通の立ち食いそば屋では、これほどの肉うどんにお目にかかることは、なかなか出来ない。肉は濃い味付けがされた堅い場合が多く、どうしても出汁と麺とのまとまりが悪くなり、肉とうどんと乖離してしまうものだが、松戸駅1Fの立ち食いそば屋のは、薬味のネギとも相俟って、出汁と麺と肉との味わいがひとつにまとまり、ふっくらふくらむのであった。

なお、薬味はその名のごとく「薬」になるのであり、風邪にネギが効くことは、皆さんにも経験があろう。

このように私は、風邪をひいたときには、そばでなく、うどんを食べる。普段はそばの方が栄養がありそうということなのだが、風邪のときは、消化が良い方に走るのである。その場合、「肉うどん」というのはかなりチャレンジングな部類であり、身体が弱っているときにこれを頼める店は、私はこの松戸駅1Fの店のほかに知らない。ほかの店の場合は、安全を見て、「月見うどん」になるのだ。

この店は、かなり繁盛していたと思うのだが、少し前に松戸に行ったとき、なくなってしまっていた。「あじさい」などの日本食堂系(?)のような系列の店でなく、この店は独立系であったと思う。そのため豊富な品揃えや、高い品質を保持出来ていたと推察される。ご飯付きの定食のようなものもラインナップしており、それが立ち食いそば屋にありがちな、そばとカレーのセットメニューのようなものではなく、もう少し本格的なものなのであった。記憶には定かではないが、ビールと酒も置いていたのではあるまいか? 夜などはおじさん達が一杯飲み屋の代わりにしていたような気もする。

このような良い店がなくなってしまって、私は淋しい。


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