連載エッセイ「日々の徒然」

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◎第15回(2000/11/14)

「ピストン輸送」の続編(でもないか)

高木 亮
第14回の日々の徒然に登場したM社のオープンカーは、3年弱乗ったのだが、すっかりオープンカーの魅力にはまった私は、更に車趣味に邁進しつつ、英国製のMG−B(1972年式)に乗り換えたのであった。1964年にデビューしたそのボディは流麗で、オールドイングリッシュホワイトに再塗装されていた。トランスミッションは4速+ODで、シフトレヴァー上のスウィッチを入れるとODに入るのであった。北米仕様なので英国車なのに左ハンドルであり、乗り換え当初はよく交差点でウィンカーの代わりにワイパーを動かしてしまった。

何しろ古い車で、しかもオーバーヒートし易い英国車、夏に海老原氏と志賀高原に行った時は、どんどん上昇する水温計とにらめっこしながら休み休み行ったのであった。しかもブレーキシステム(ロッキード製)はもはや信頼性が低く、下り坂は恐怖であった。でも、まだその頃は走ったからよいのであった。

その後のある日、当時付合っていた女の子とMGでドライブに行ったのであった。その日の朝、エンジンからなんかかすかに異音がするなーとは思っていた。でも、かすかなので、そのまんま茨城の那珂湊まで常磐高速を北上した。

何処へ行ったのか全く失念してしまったが、事件は国道51号上で起きた。朝はかすかだった異音は昼過ぎに音量を増し、千葉に向かって51号をゆっくり下っていこうと思った頃には、エンジンからグワラングワラン音を立て始めた。万事休す。ついにエンジン様が昇天なさってしまったのだ。

近くのガソリンスタンドでレッカー車を呼んでもらい、我がMGは荷台に、レッカー車のキャブには運転士さん、(当時の)彼女、私、と言う状態で那珂湊から当時住んでいた浦安まで帰ってきた。浦安につくまで、我々は一言もしゃべらなかった。家に着く前に銀行によってもらい、レッカー代約10万円をおろしてきて、運転士さんに払った。

その後、エンジン様にはオーバーホールで約50万円ほど掛かり、私の借金生活に拍車を掛けたのであった。勿論、その彼女にはすぐ振られたのは言うまでもない。

*そのMG以来、車がない生活だったのだが、結婚して再びM社のセダンを買った。実は私、その車までパワーステアリング、パワーウィンドウ、パワーミラーのついた車を持っていた事がなかったのだ。ユーノスの時も、窓はくるくると手で開けていたのであった。


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