[エッセイ目次] [←前へ] [次へ→] | [トップへ] |
オーバーラン野口 洋隆
【序】S井氏などは、最終大垣行きで浜松辺りまで行ってしまったらしいが、私のはそんなに大したものではない。 とは言え、はっと気づくと見知らぬ駅で、反対側の最終電車もなくなり、帰れなくなるという事態が発生することもある。 学生の頃はそんなことはなかったのだが、会社生活をしているとついついストレスで飲み過ぎ(ホントか?)て、電車の終点で車掌さんから起こされることも間々あるようになった。 (ちなみに、最近はありません) 【1989年1月8日】 学生のとき、一度だけ乗り過ごしたことがある。今でも覚えている。 その日は、トロンボーンのI先生門下の「おさらい会」であった。私は大学3年で、おさらい回は3回目になる。 おさらい会とは、門下生のソロの発表会のことである。 1年生の頃は右も左も分からずにとにかく人前で一人で吹かされ、2年生ではやっぱり簡単な古典をきちんとやろうという感じになり、3年生ではそろそろ大曲っぽいのをやってみようというポジションである。ちなみに4年生は勝負曲にトライする、と言えようか。 そして、3年生は幹事学年で、私が幹事だった。ありがたいことに、同学年のほかの方々や後輩の方々の多大なご協力をいただいたので、私がやったのはワープロでプログラムをしこしこ作ることくらいで済んだ。 その頃私は常磐線沿線のC県M戸市に住んでいた。 おさらい会の会場は、新宿から出る私鉄O線の新Yヶ丘駅前のホール。 ところで、私がこのおさらい会の日付をことさらに覚えているのは、実は、この日が元号が平成に変わった最初の日だからなのだ。 前日、昭和天皇の崩御が報じられ、元号が「平成」になることが発表された。 このため、私は既に作っていたプログラムの年月日を書き換えた。 「1989年1月8日」から「平成元年1月8日」へと。 当然、ワープロの変換辞書には平成はまだはいっていなかった。 このプログラムは、受けた。I先生やほかの出演者の方々に好評だった。もちろん年月日が、である。 その年私がおさらい会で取り上げた曲は......、言うのはよそう。 何故なら、何故なら、このときの演奏は、思い出したくもない、最悪の出来だったからだ。 ボロボロだった。 そして、そのボロさに、吹いていて気ばかりが焦り、さらにボロさに拍車をかけるという状態だった。 吹いていて口の中がカラカラになった。 タンギングをしても、音がことごとく出ない。 ソロなので、助けてくれる者はいない。 終わったとき、私は放心状態に近かったと言えよう。 もちろん伴奏者が悪かったり、曲が悪かったりという訳ではない。 まあ、調の設定が「嫌な調だな」と思いながらやっていたのはある(そんな曲選ぶな、という気もするが)。つまり、私の嫌いな音、A♭が頻出する調(Cmollだが)であった。 古典の曲で、緩−急−緩−急の4楽章形式なのだが、得意の緩徐楽章すらメタメタになった。 今から思えば、まだまだ譜面の表層的なことしか見ていなくて、感情的にフィットしないまま、ありもしないテクニックでやっつけようとしたので、ボロボロの結果は当然だったという反省もなされる。 この翌年だったと思うのだが、同期のK氏(○○○゛大学)が同じ曲を取り上げた。正直、私にとって大変なプレッシャーであった。 しかも、K氏の取り上げた楽譜は、エディションが私のと違っており、調も1つ上なのである。Cmollでもひぃひぃ言っていた私は、DmollでK氏がどう吹くのか固唾を飲んで見守っていたが、K氏は軽々と吹き上げておられた。 「う゛ーん、悔しいけど上手いなあ」 私は感心した。 ちなみに、翌年私が取り上げた曲は、Es Dur だった。またも果敢にA♭と向かい合ったのである。ただし、こちらの曲は致命的なところでA♭は出てこなかったように思う。 なお、現在に至るまで、私が緊張することで最も怖れているのは、口の中が渇くことだ。この状態になると、これはもう、音が出なくなる。出なくなるというか、タンギングしても出なかったりと、コントロールがなくなるのだ。すると、ますます緊張が進み、焦り、コントロールが失われていくという悪循環に陥る。こうなると、曲想がどうのこうの考える余地がなくなるなんていうものでなく、音程やリズムまでがどこかへ飛んでいってしまう。 口の中が渇くのは、高校生の頃から既にそうであった。 アンサンブル・コンテストで、舞台袖で待機している間中、口に水を含み、舞台に出ておもむろに飲み込んで渇きを癒したこともある。 この前のピストンの本番(2003年1月11日 第11回定期演奏会)で、寄りによって私はバストランペット協奏曲のソロをやることになり、高校生以来の口に水を含む作戦を採ることにした。しかも、アンサンブル・コンテストのように5分で終わることはなく、延々20分くらいの曲なので、ハンドタオルに水を含ませたものも用意した。練習時に作曲者と話して、この渇き問題の話になり、「レモンを手に塗っておく人もいるんですよね」ということを聞いたからである。この水含みハンドタオルは功を奏したと思う。 さて、話は平成最初の日に戻るが、ボロボロの演奏をした私は、打ち上げの席でもショックは癒えることはなかった。 周囲の人ともあまり話すこともなく、一人ものも食べずに日本酒を流し込んでいた。 もしかしたら、そんなに酷くはなかったのかも知れない。 けれども、この年のおさらい会だけは怖くて録音も聞いていない(そのうちどこかへ行ってしまったように思う)ので、確かめようがない。 帰り、O線の電車に乗った。 O線は地下鉄C線が乗り入れており、このC線は更に常磐線に乗り入れている。したがって、新Yヶ丘からM戸まで1〜2回のホーム乗り換えで帰ることができる。 私は取りあえず常磐線直通のC線の電車にまでは乗ったようだ。 I先生の飲み会なので、当然最終である。 私は楽器ケースを抱え込んで座席に座っていた。 起こされた。終点らしい。 え、ここは何処? 最終電車は、M戸駅を通り過ぎ、終点のAB子駅まで行っていた。 仕方ないので、電車から降りて駅から出る。駅前にはタクシーにちらほら並んでいた。 この頃、ほとんどタクシーに乗ったことはなかった。バブルの時代とは言え、学生はタクシーになど乗らなかった。 またAB子駅方面にも○○○゛へ行くときくらいしか行かなかったため、私にとっては、AB子もほとんど○○○゛と同じようなものという感覚であった。 財布の中身を見る。数千円あったように思う。でも、万円札はなかった。 ドキドキしながら、タクシーの運転手さんに聞いた。 「M戸までは、いくらくらいで行きますか?」 ギリギリっぽい感じであった。 「○千円までいったら、そこで降ろしてください」 殊勝にも、そんなようなことを言った気もする。 運転手さんは、優しい人で、6号線を南下しつつ信号待ちをする度に、深夜割り増しのメーターを切ってくれた。 こうして、何とかうちに帰ることができた。 思えば、学生のときはウブだったのう。 その後、社会人になって、各地のカプセルホテルやサウナなどにちょっと詳しくなったし、あーあタクシーで大散財、というのも何度かある。「白タク」というのにも1回出会った。「東京に行くのは何年ぶりかのぅ」というおじいさんの運転手さんに喜ばれたこともある。 すべては、この日から始まったのであった。 【2001年7月21日】 もう私は結婚している時代である。住居も、現在のところ。C県の県庁所在地である。 NABEO in 川崎。洗足学園でJapan Brass Festivalというのとブッキングしてやった回のこと。 暑い日だった。夏の陽光が照りつけていた。 私鉄T線のMの口駅から会場に向かう途中で、チラシを抱えて途方にくれているS川さんを救出した。 本番は、滞りなく終わった。T玉嬢のピストン・デビューはこの演奏だったはずだ。ピストン演奏史的には、オール・フリューゲルのアンサンブルに目覚めた時である。 演奏が全部終わって、Y代表から「宴会は8時から」の旨のアナウンスがあった。 おいおい、4時間もあるじゃないか。 会場内で行われている催しを見て回ろう、という趣旨だったと思うが、暑さにまいっていたピストンの面々は0次会の場所を探して回った。 ありました。つぼ八が。 大ジョッキから流し込むビールの喉越しがたまらない。 いよいよ本格的になっていたその年の夏の暑さは、我々に何度もジョッキのおかわりを促す。何だかんだで腹も減っており、つまみもバンバン注文する。 そうこうしているうちに、我々はかなり好い気分になっていた。 お、そろそろ時間じゃないか。会場に戻り宴会場へ向かう。 既に出来上がっているので、この宴会の様子はほとんど覚えていない。いや、発泡酒の350ml缶が山のように積んであったのは覚えている。あと、スライドワークの方に「来年お願いしますね」と話したことを覚えている。 終宴後、M岸氏が渋谷まで送ってくれるというので、何人かで乗った。 この辺から、本格的に記憶が飛んでいる。 後の何人かの証言を元に構成すると、私はどうやら、渋谷から地下鉄H線に乗り、新N橋で総武線に乗り換えようと考えていたらしい。また、座席に座りながらも吊革に掴まっていたらしい。 再び記憶を取り戻した私が耳にしたのは、車掌さんのアナウンスだった。 「次はMの口、Mの口」 そして電車は駅にはいる。目にはいってきたのは、駅の名前。確かにMの口。 あれっ、Mの口って、確か今日本番やったところだよなあ。 何でこんなとこに出てくるんだろう、この駅。 出てきたのは駅なのではなく、自分の方がのこのこ戻ってきたことに気付くには、まだしばらくの時間を要した。 徐々に思考力を回復していく。 乗り過ごしたのかしらん。取りあえず乗ってればうちに近づくかしらん。 電車はMの口を出た。 次の駅につき、またドアが閉まって発車する。駅名にはまったく覚えがない。これはやばいかも。 「次はM崎台、M崎台」 まったく土地勘がない地方なので、電車がどっちに向かっているかも分からない。車内の案内で確かめる。 あちゃ、反対じゃん。 M崎台で降りた。 微かな希望を持って反対側のホームを見たが、既に何の灯りもついていない。 やっちまったぜい。 何で、出発した駅を通り越えて反対側に行ってしまうんだよ? だいたい、オレはぜんぜん反対側の県に住んでるんだぞ、という疑問を感じながらも、駅を出た。 取りあえず所持金を確かめる。 ぜんぜんない。千円札1枚+小銭少々。 つぼ八で奮発したため、残額は激減していた。 これでは、まずタクるのは無理である。私の家は東京都内からでも10kでは効かない。よって、まったく反対側からでは30k以上はないとダメなのではないか。酔った頭で必死に考えた。 さて、いつもならここで泊まれるところを探すのである。カプセルとか、サウナとかあると良い。24hrのファミレスでもいいぞ。 しかし、非情にも、都内や主要ターミナル駅なら見つかるであろうこれらの施設は、郊外の住宅街という趣のこの駅には見あたらなかった。それにそもそも所持金がおぼつかない。 うわあ、どうしよう。おっと、その前にうちに電話しなくては。 奥さんに電話をして、ごめんなさい100発をする。 いろいろあって(とても言えない)、取りあえず駅の周辺を探索してみることにした。「台」と付くだけあって登っていく坂道がある。楽器を持ってふらついてみたが、マンションと住宅しかない。 大きめの駐車場があった。 そこで寝ようと思ったが、寝付けないので止めた(っていうか、それ以前に危険である)。 駅前まで戻った。 これはやはり駅前のベンチで寝るしかない。よく見ると、すぐそこにトイレもあるではないか。ここがよかろう。 ということで、ベンチに仰向けになった。 朝になった。 コワい青少年とかいない平和な街でよかった。 朝から怪しいおじさん(私ではない)が約1名駅前をうろうろしていらっしゃったが、私は時刻表で始発電車の時刻を確かめ、ひたすらその時を待った。 ようやく改札口が開き、始発電車が来た。 私は登りの電車に乗り込んだ。 こうして、私はうとうとしながらも、何とか家にたどり着いたのである。 奥さんからこっぴどく叱られたのは言うまでもない。 |
[エッセイ目次] [←前へ] [次へ→] | [トップへ] |