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【第10章】 取りあえずの fine 〜どうやって終わろうか?〜野口 洋隆
Q.次の曲の終わり方についての共通点は何か?(for Trombone) ・ドボルザーク 新世界 ・ベートーベン 運命 (for BassTrumpet) ・ ヤナーチェク シンフォニエッタ A.その楽器だけ、最後の音がない、もしくは短い音で終わってしまう。 最初の『新世界』であるが、最終楽章の終わり方は、全員で「ジャン!」とやって、トロンボーン、テューバを除く管楽器だけが「フワーン」と残り、ひなびた雰囲気を現出する。 これは、それほど理解が難しいものではない。確かに、『新世界』はドラマティックに曲が進行し、最終楽章も同様で、曲の最後も大盛り上がりするので、最後の音が「ジャン」で終わるのは、いささか欲求不満を感じさせないこともない。けれども、この曲は、ほかにも「ジャン」で終わる楽器があるし、何より、最後の最後で木管のコードを中心にディミネンドして終わるというのは、一般的には土俗的なイメージで語られるドボルザークのセンスの良さを感じさせる。 次の『運命』であるが、ほかの楽器では知らない人も多いかもしれないので、説明しよう。 ベートーベンの交響曲第5番俗称"運命"であるが、Cmollで沈痛に描かれてきた音楽が、4楽章に至ってAllegroでCdurの奔流という劇的な作りになっている。前稿でも述べたが、トロンボーンは4楽章の冒頭に、満を持して、Cdurのコードを吹き鳴らす。ご丁寧に1stはハイCだったりする。後は怒涛のごとく、ほかの楽器と一緒になって生の喜びを歌いあげていく。 ベートーベンの交響曲の多くと同様、この曲も「まだ終わらないのか!」というように最後がくどい。名残惜しいのか、何度もCのコードを敲いた後、やっとのことで最後の全音符に突入し、思うだけフェルマータして、終わる。 解釈上、最後のPrestoのテンポが早ければ、フェルマータもほとんどせずにピッと切り上げることもあろうし、逆に最後何度も念を押すようテンポも上げない場合は、思い切りフェルマータされることもあろう。 しかし、このような指揮者の解釈およびオーケストラの演奏とは関係なく、最後の音で、仕方なく楽器だけは構えているが、心の中では所在なげにしている人がいる。 ●トロンボーンの3人である。 さあ、みなさん、『運命』のスコアを開いてみよう。最後のページである。 1パートだけ最後の音が「黒い」人がいるでしょう。 トロンボーンの3人である。この3人は、オーケストラのほかの人たちが、盛り上がって最後の最後に「ジャーーーーン!」と伸ばしているところで、「ジャン」で終わってしまうのである。少なくとも、楽譜通り演奏しろ、と言うならそうなる。 このときの奏者の気持ちを著してみよう。 ♪ジャン! あ〜終わった。まだみんな伸ばしているな。そろそろ楽器下ろしたいな。間が持たなくなってきたな。指揮者の先生、今日はまた一段と伸ばすな。早く終わってくれないかな。あ、やっと終わった。 ほかの人は知らないが、筆者にとってこの状態は精神衛生上あまりよろしくない。 何故トロンボーンだけ「ジャン」なのだろうか? (仮説その1) 単にベートーベンが書き間違えた。もしくは、写譜屋が間違えた。 音楽学者の細密な研究などぜんぜんフォローしていない筆者であるが、間違えた、というのは説としてはありうるだろう。 ベートーベンでは、交響曲第3番『エロイカ』の第1楽章で「トランペットで吹いているテーマが途中で消えてしまうのをどう考えるか?」という有名な問題がある。これなどは、ベートーベンの作曲上の要求に当時の楽器能力が追いついていなかっただけだから、と言って最後までテーマを吹かせてしまう解釈がある一方、ベートーベンが手ずから書いた楽譜を尊重し、何か意味があるに違いないということで途中からトランペットが消える解釈とがある(らしい。トロンボーンがtacetの曲なので、筆者はあまり研究していないのであった)。 もっと有名な問題に、「ベートーベンのメトロノーム記号は速すぎる。間違いではないか」とか「ベートーベンの持っていたメトロノームは壊れていたに違いない」というのがある。 つまり、本人に確認するすべもないのであり、楽譜が必ずしも正しいわけではないのでは、という立場は取れると考えられる。 間違いだと解釈すれば、対処法としては「ほかの楽器と一緒にジャーーーーンと伸ばして、カタルシスを十分に味わう」というものになろう。ちなみに筆者は一度もやったことはない。 (仮説その2) ベートーベンは、明確な意思をもって「ジャン」と書いた。 前稿でも述べたが、『運命』は史上初めて交響曲にトロンボーンを取り入れた作品である。 新しい楽器の採用にあたり、ベートーベンは慎重を期した。4楽章のみに新規採用することとしたのだ。全編「異質」なサウンドが混じるのは冒険が過ぎる。このように考えたベートーベンは、最後の音にも工夫を凝らした。すなわち、曲の大団円を顕わす最後の和音、これはやはり昔ながらの耳に馴染んだサウンドで終わった方がよいのではないか。 そこでベートーベンは書いた。最後の和音は、最初「異質」なサウンドが混じって「ジャン!」と鳴ったなかから、「いつもの」サウンドだけが浮かび上がってきて終わる。感動もひとしおである。 現代音楽ではオーケストラもさまざまな実験を施されていようが、そういうのではなくオーソドックスな新古典的なオケ曲を書こうとして、ただちょっと現代味を加えようと、例えばハモンドオルガンのような電子サウンドを取り入れたとしてみる。初めてハモンドが出てきたときは、おっと思うはずだ。今まで聞き慣れない新しいサウンドに興味も深まる。ただし、最後のハーモニーまでハモンドの電子サウンドが幅を聞かせていると、聴衆の耳はハモンドに支配されてしまう。 この曲の最後はまたハモンドが消えて、聞き慣れたオーケストラのサウンドで終わったとしてみよう。ハモンド一色の音色感から抜け出し、多面的で一段格が上がった作品の印象を与えるのではなかろうか。 筆者が行ったピストンクラブのアレンジで、ティンパニを取り入れたものがあって、曲の最後はティンパニもデンドン叩いて盛り上がるのだが、最後のハーモニーはティンパニが「ドン!」と頭だけ叩いて、あとはブラスのBdurのハーモニーのみが残って終わる、というのを書いたことがある。 筆者としては、ブラスのハーモニーの輝かしさを強調しようと意図したものだった。 しかし、本番でティンパニ奏者は最後のハーモニーの伸ばしになってもトレモロを止めず、ブラスの切りと一緒に「ダン!」とやって終わったのであった。 まあ、独りだけ先に終わってしまうのはつまらなかったのだろう。筆者の意図は、こうして実現しなかったのであった。 ちなみに、そのティンパニ奏者は、現在、筆者の奥さんだったりする。 このような経験があるので、『運命』の終わりでトロンボーンだけが「ジャン!」なのは、ベートーベンがトロンボーンの音をノイズ、エイリアンというように捉えていて、オーケストラのほかの楽器による純粋な響きを汚さないようにしたかったからなのかのぅ、という仮説を思いついたのである。思いついたのではあるが、トロンボーンの音がそんなにノイズとは思えない(思いたくない)のであって、少なくとも完全に正しいとは思っていない。 いずれにせよ、奏者としては精神の持ちようが難しい曲である。 筆者が今までに得た4〜5回の『運命』を吹く機会のなかでは、もちろんそういう経験はないのだが、もし、吹いていて「どうしても許せない指揮者」に遭遇したとしたら、最後の「ジャン」を吹き終わったらすかさず楽器を降ろしてしまい、指揮者がまだ音を切る前に、足まで組んで、曲の終わりを待つ、という態度で反意を表明するであろう。 ヤナーチェクの『シンフォニエッタ』に移ろう。 筆者は1回だけオーケストラでこの曲をやる機会をもらったことがある。もちろん、バストランペットを吹かせてもらった(実はこの曲には、トロンボーンの1stのみならず2ndにも、とってもおいしいソロがある)。 ピストンクラブでは、有名な最初のファンファーレの部分を、自らアレンジして演ったことがあったのだが、オーケストラで全曲やるまで、それもパート譜をもらってさらい始めるまで、恥ずかしながら知らなかったことがある。 ●バストランペットだけ、最後の音がない。 いや、バストランペットとテナーチューバだけ最後の音がない、というのが正確なところなのだが、同じようなものである。 この曲の楽譜上の指定は、バストランペットが2本である。ただし、徹頭徹尾ユニゾンである。しかも、やっていることは、ほぼティンパニと一緒である。 条件的には、面白くないことしきりであるが、そこはほれ、トランペット9本+テナーチューバ2本+バストランペット2本というバンダ隊の一員として、曲の最初と最後の一番いいところで、思う存分吹きまくる、という、大変分かりやすい楽しみを味わえる曲なのであった。 編成の問題からも、アマオケでもおいそれとは取り上げない曲であろう(ラッパさえ揃えば出来るか。現に、筆者が吹いたときも、バンダ要員として、ピストンクラブごと呼ばれたのであった。バストランペットも楽器と奏者がもう1つ用意され、なかなか快適であった)。 しかし、しかしなのである。こればかりは、スコアを何度ひっくり返しても分からない。 ●バストランペット(とテナーチューバ)だけ、最後の音がないのである。 書き忘れ? どうしたって、あれだけ盛り上がるだけ盛り上がったあとで、最後に音がないというのは、欲求不満が激しく募る。いや、バストランペットはあくまでバンダなので、最後は休みというのは理解できないことはないのだが、同じバンダの普通のトランペットたちはffでコードを鳴らしているのである。 これを隣にして、ただただ黙っているのはツラい。 書き忘れの可能性は否定できないと思う。 私の手元にあるPhilharmonia版のスコアを見ると、この曲は最後7小節がAdagioの取って付けたようなコーダとなっているが、その最後3小節だけに突如として(つまり、空白のところから突然五線が始まる)「1-9.Tr(Do)」と書かれて、バンダのトランペット部隊にDes durのコードが割り振られているのだ。割り振ると言っても、トランペットは9本あるのに、音は4つしか書いてなく、何番が何の音を吹くのかの指定すらスコアにはないのであるが。 バストランペットは「Tr.b.(Si♭)」、テナーテューバは「Tb.ten.(Si♭)」として記載されているのだが、このパートだけ、最後の取って付けたコーダのそのまた取って付けたバンダ隊の楽譜に、取って付けるのを忘れた、というのは十分考えられると思う。 しかし、どう見たって、曲の最後で盛り上がって、みんなで「ジャン!」とやって終わる曲で、4人だけ参加してない人がいる、という図式は変なのではなかろうか。 (もしかしたら、打楽器の人はそういう気持ちをいつも味わっているのかも知れないが。) ということで、筆者がやったシンフォニエッタの本番では、一緒にバストランペットを吹いていたTさんと語らって、最後のジャン!に参加した、ような記憶がある。 〜 〜 〜 〜 〜 〜 さて、長々書いてきた第2弾も、10章を重ねてしまった。ここで終わりにしなくても別に構わないのだが、前稿にならって、本章で一応のエンドにしようと思う。 本当は、もう少し考察をしてみたいことがあって、例えば本稿でもちょっと触れたように、 ●何故ユーフォニウム上がりのトロンボーンの人は上手なのか? とか、 ●バストロンボーンとは、そもそも何なのか? などのテーマがあるのだが、これらについては、現時点では筆者に材料が足りず、まだ書けないと感じている。 それにこの時点(2003.1)で、筆者は、半年くらいトロンボーンを吹いていないという状態であり(バストランペットは吹いていたが)、あんまりエラそうなことは言えないのであった。一応自分としては“プレイヤー”にこだわりたいのであり、その現場から離れてあれこれ言うというのは、柄ではないと思っているのだ。 また、数年したら、第3弾を書くかも知れない。書けないかも知れない。 もし、ここまでお読みくださった方がいらっしゃったとしたら、この駄文におつきあいいただいたことに心から感謝したい。 ありがとうございました。 |
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