連載エッセイ「日々の徒然」

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◎特別編第2弾(2003/3/2)
『トランペット吹き《もどき》から見たトロンボーン吹き』
〜続・トロンボーン吹きから見たトランペット吹き〜

【第4章】 機能性の束縛 〜しゃくりの魔力を克服出来るか?〜

野口 洋隆
 それにしても筆者の話は即物的で、精神的な営みの貧困さがまざまざと顕れているものよ。

 という反省のもと、本章では、まず「音楽する心」というものを考えてみよう。

 本来的は、どのような音楽をしたい、というのが先にあって、たまたま手にしてるのがトロンボーンとかトランペットとか、はたまたピアノだったりバイオリンだったりするだけで、その音楽する心がまず大事なのではないか、という議論がある。
 やっぱり歌には適わない、だとか、この世の最高の楽器は人の声である、という議論も上と軌を一にするのではなかろうか?
 すなわち、人が最も自然にその思いを表すことができるのが自らの声であり、心の表現に最も近い、ということで、人の声が一番、という論理の展開が背後にあるような気がする。

 まず思いがあって、それが押さえきれずに音楽として溢れ出してくる、といったイメージか。

 本当?

 ああ、こんなことばかり書いているから精神的な営みが貧困という感じなのだが、少なくとも筆者がトロンボーンを吹く場合の音楽表現は「かなり楽器の特性に負っている」ような気がしてならない。

 ●それは、筆者が未熟なだけ。

 おそらくそうなのであろう。実際、スラーが出来るようになってゆっくりたっぷり歌う(ラララ系と筆者は呼んでいる)フレーズに思いを込められるようになったし、替えポジションやスムースなスライディングを学ぶことで早いパッセージの軽快さを味わえるようになったし、スケールのトレーニングを積むことで「転調の綾」といったものを楽しめるようになった。
(注:かなり現実を美化した表現の気はするが....)

 確かに、「こう吹きたい」「こういう音楽がしたい」という願いが先にあって、それを実現するためにスケールやスラーやスライディングの練習を積んでいるように見える。

 本当?

 筆者の気持ちを正直に言語化してみると、

「ここのミ→ドの6度上昇跳躍もリップで出来るようになったぜぃ。前は舌ついてたんだけどな。せっかく出来るようになったんだからリップでやったろ・・・・・・おぅ、リップだとエラいカッコいいぜ。ついでに得意のビブラ〜トもかけたろか」

「ここのB♭を5pos.で取れば往復スライディングで簡単じゃん、今度やったろ。見た目も面白いし受けるような気がするぜ。♪パラパラパラパラパー。おお、それっぽく聞こえるじゃん。よし、これで行こ」

「うわ、ここからはシャープがいっぱいついてるなぁ、苦手なんだよな・・・・・・、ありゃ、やってみると意外と吹けるじゃん。スケールの練習いっぱいしたから身体が覚えてて勝手に腕が動くぜ。快適快適」

というような感じである。

 つまり、トレーニングを積んで技術を習得することによって、出来る表現の幅が拡がり、それを受けて、楽譜を見たときに浮かんでくる音楽も、その技術の習得前に比べて、より豊かとか、より心地よくとか、より歌としてとか、響いてくるように思われるのだ。
 習得した技術が、心の中の音楽の形成にフィードバックされていくというわけだ。

 必ずしも、イデアとしての音楽が自分の心にあって、それから楽器を手にするというわけではない。楽器を持っていろいろとこねくり回している中で、心の中の音楽が形造られていく面もあるのではないか、この面は無視できないのではなかろうか、というのが本章の隠れたテーマである。

 もちろん、ほかの音楽を聴いてインスピレーションが湧くということもあろうし、文学や絵画や、もっと卑近な生活の一場面からも、音楽についてのインスピレーションを受けることはあるだろう。
 
 しかし、その楽器によって表現する場合、その音楽のヴィジョンのようなものは、かなりの部分その楽器の個性に負うていて、ともすれば、そのことについて無意識的になってしまうのではないだろうか。

 話が抽象的な方に行きすぎた。似合わないので、戻そう。

 ひとつの例として、トロンボーンの「しゃくり」を挙げようと思う。

 「しゃくり」がトロンボーン一般に通用する言葉なのか、心許ない。

 「しゃくり」とは、トロンボーンの奏法で、目指す音=楽譜に書いてある音の、やや下目から、くぃんと、ポルタメントのように吹くものである。
 奏法といっても、多分、教則本とかには載っていない。少なくとも、筆者は見たことはない。ジャズの教則本なら載ってるかも知れない。
 ちなみに、楽譜に書くとしたら、音符の前に「ノ」の字をつけることになろう。

 音程的には、半音までは行かず、1/4音の微分音程っぽいくらい、すなわちスライドの移動距離として3〜4cmくらいでやることが多いのではなかろうか。
 特に、フレーズの最初の音に対して施すことが多い。「ここ、しゃくろうか」「はいよ」ってな感じである。

 この奏法は、他の管楽器では難しいのではなかろうか。フレーズの途中でグリッサンドをかますのは、トランペットとかクラリネットとかでも口でやってるが、最初の音で「くぃん」とやるのは難しいような気がする。
 トランペットでは、最初の音をハーフバルブで出して、「ぅぅうわあ〜ん」とやる手法があるが、しゃくりとはぜんぜん違う。

 ひらがなだらけの変な擬音では分からないという人に例を挙げよう。

 筆者の家庭では、月曜の夜8時から、夫婦そろって水戸黄門を観るのが結婚以来の風習である。
 現在(2002年秋)放映されている水戸黄門の主題歌は舟木一夫、西郷輝彦、橋幸夫の3人が担当している(3重唱しているわけではなく、それぞれソロで歌っているのが週ごとに順番に流される)。
 ここで、筆者の奥さんは橋幸夫の日になると、「私、この歌い方ダメ」と言う。
 何がダメかというと、歌の最初の「じ〜〜んせ〜い〜楽ありゃ苦もあるさ」の「じ〜〜」のところで橋が「ずうぃ〜んせ〜い〜」と下からずり上げて歌い始めているところにあるらしい。
 
 ● これが「しゃくり」である。

 舟木の率直な唱法、西郷の衒いのない唱法に対し、橋のしゃくりを使った唱法は、なるほど濃密な表現である。
 しかし同時に、「しつこさ」とか「嫌らしさ」とか「調子良さ」といった部分を強調する働きもする。しゃくりは諸刃の剣である。

 トロンボーンでも、しゃくりを節度を保って使用することで、甘くビロードな感じを出すことが出来る。またここぞというときに使用することで、強調=アクセントの効果を出すことも出来る。

 クラシックの演奏においては、一見しゃくりは無縁のように思える。しかし、筆者は確信犯的に使ってしまったことがある。ここで白状してしまおう。
 
 曲は、バルトークの『管弦楽のための協奏曲』通称オケコンである。
 第5楽章の最後の方、1stトロンボーンは1stトランペットとオクターブ・ユニゾンで「HiB♭→F→B♭→」とモチーフをffで鳴らすところがある。このモチーフの続き、Fで2拍3連を2回吹くところで2回目の2拍3連の前にしゃくりを入れたのであった。
 まあ、この5楽章はジャズのテイストをふんだんに取り入れたのが味だから、許してもらいたい。

 ● もちろん、指揮者の指示ではない。

 しゃくりの便利な点がもうひとつある。

 しゃくる際には、音の出し方がジャストの音程を狙わずに済み、出しにくい音であっても非常に外れにくくなる。というか、外れたとしても、スライドを動かす間に修正できる。つまり、とっても誤魔化しが効くのである。音程についても、スライドを動かしながら発音するため、音を出してから正しい音程のところまで上げればよくなる。ソルフェージュ能力が足りなくても大丈夫なのだ。

 カラオケでも、特に演歌など歌うとき、音程に自信がない人は、とりあえず低めにはいっておいて、伴奏と自分の声のギャップを確かめながら、ぅぃいい〜んという感じで歌い出してみよう。
 音程感のなさが誤魔化せるばかりか、「おっ、歌い込んでるな」という印象を与えることもできる。

 トロンボーンは、ちょっとコツさえつかめばこれが楽器でも簡単に出来るのである。
 
 そして、これは麻薬のようなものである。

 バテて来て「あそこのハイトーン当たるかな?」と不安になるときがあるでしょ。

 そんなとき、曲想が許せばしゃくろう。何回かは誤魔化しが効くはずである。

 「何か一本調子で、色気がないんだよな、おまえのトロンボーンは」とか何とか言われたとしよう。

 そんなとき、しゃくってみよう。音程きっちりとか、リズムしっかりとか、そんなことどうでもよくなって(こりゃ困るな)、歌い方にフェイクが効くようになる(可能性がなきにしもあろう)。

 このように、しゃくりは、音程やスタミナの問題のみならず、音楽性の問題にも対処できる、幅広いテクニックなのだ。そこで、しゃくりを覚えてしまうと、ついつい多用するといった悪弊を生じることにもなる。

 ● しゃくりは1回の演奏会で3回まで。

 どうだ! この禁欲さ。
 筆者としては、このくらいの気持ちでいた方が、よい結果が生まれるような気がしている。
 やろうと思えば、1フレーズに3回くらい咬ますことも出来るのだが、何度も言うように、しゃくりはやりすぎてはならない。やりすぎると「ウザく」なること必至である(おっと、本稿のようなものか?)。


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